観光プランを立てる時、重視する点は人それぞれ違うと思います。
施設見学、食べ歩き、特産品の購入、
温泉など綿密な計画を立て始めたら終わりがないということありませんか。
では京都観光では何に重点を置きますか。
古都に行くからには少なからずお寺や神社をいくつか見てまわるでしょう。
ただ一言で京都観光と言っても星の数ほどある寺社を隈なく見学するには、
何度も京都に足を運ぶ必要があります。
有名な寺社をいくつか参拝した後、その近くにあるお寺も併せて行ってみる方も多いはず。
もし京都御所や錦市場、花見小路が京都観光プランに入っているなら
ぜひとも本能寺にも足を延ばしてみてください。
清水寺や八坂神社のような知名度はなくとも、
明智光秀が謀反を起こした日本史史上最も有名と言っても過言ではない
「本能寺の変」に触れることができます。
本能寺の変の舞台
今から400年以上前の1582年6月2日の早朝、
明智光秀が1300もの大軍を率いて本能寺を奇襲しました。
対する織田信長軍はわずか150名程でした。
戦国の世で破竹の勢いで頭角を現したのが、尾張の戦国大名織田信長です。
長年対立していた甲斐の武田信玄が死去したことによって、
東国の敵はいなくなり織田信長による天下統一はあと少しというところまで来ていました。
その頃中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏は織田勢に徹底抗戦の構えを示していました。
そこで織田信長は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に中国征伐を、三男信孝に四国征伐を命じました。
そんな中、京都からほど近い近江(現在の滋賀県)に拠点を構えていた明智光秀は、
羽柴秀吉を加勢するよう命じられました。
織田信長自身も羽柴秀吉軍と合流するつもりで本能寺に滞在していました。
当時の本能寺は広大な敷地の中に建っていて、周囲を石垣で囲った上に堀が張り巡らされていて、
外からは容易に近づけない構造になっていました。
私達が知っている寺とは違って、かなり守備の堅い「城塞」だったようです。
織田信長の命を受けた明智光秀は一旦中国地方に向けて軍を動かしたかに見えましたが、
真っ直ぐ主君の滞在先である本能寺に攻め込みました。
明智光秀軍が1300であるのに対して、織田信長軍はその10分の1、勝敗は明らかでした。
この時織田信長の発した「是非に及ばず」(もはや脱出は不可能であるとの意)の一言は
後世に語り継がれています。
4時間あまりの抵抗を試みましたが織田信長は奥の部屋で自刃、49年の生涯に終止符を打ちました。
織田信長を打ったことで明智光秀が天下人となりましたが、長くは続きませんでした。
知らせを受けた羽柴秀吉はすぐさま毛利氏と和平を結び、
明智光秀を打つべく寝る間も惜しんで京に軍を進めました。
これが世に言う「中国大返し」です。
羽柴秀吉が予想外の速さで京に戻ってきたことで、
明智光秀の軍は戦闘準備が整っていなかったことや多くの兵が離脱したことで指揮力が下がり、
総崩れとなってしまいました。
わずかな兵を率いて敗走中の明智光秀は、途中の山中で落ち武者狩り
(戦国時代に百姓達が村の護衛の一環として、敵兵を捕えること)にあって
命を落としたということです。
少し話が逸れてしまいましたが、本能寺は度重なる火災で幾度も再建されていることから
「ヒ(火)」という文字を嫌い、本能寺の「能」の右側の部分を「去」に置き換えています
(「䏻」という字です)。
織田信長の供養塔
実は織田信長の墓は全国各地にあります。
ざっと調べただけで、15か所以上にあるようです。
これは本能寺の変の後、焼け跡から織田信長本人と断定できる遺体が見つからなかったことに
起因するのでしょう。
本能寺には木造の本堂の後ろ手に織田信長公廟(墓)と並んで供養塔が建っています。
本能寺の変からわずか1か月後、織田信長の三男信孝が本能寺を父の墓所と定めて
廟を建立しました。
この廟所には織田信長が使っていたとされる太刀が納められています。
大宝殿の見どころ
5度の火災による焼失と7度の再建を繰り返した本能寺ですが、
それらの災禍をくぐり抜けてきた宝物が本能寺大賓殿で公開されています。
当時の武将達の間では茶の湯が流行しており、織田信長も例外ではありませんでした。
大宝殿には織田信長が大切にしていた茶道具や書状などが展示されていますが、
注目すべきは「三足(みつあし)の蛙」と呼ばれる香炉です。
香炉は香を焚く道具としてだけではなく美術品としての評価も高かったようで、
織田信長は香炉をいくつも所持していました。
中でも中国の霊獣を形どった「三足の蛙」はお気に入りだったようです。
霊獣は天災を予知する力があり、縁起の良いものとされています。
織田信長は本能寺の変の前夜、公家や豪商を招いて茶会を催していました。
その時突然この蛙が鳴き始め、異変を知らせたという逸話があります。
本能寺の元の場所は?
明智光秀が織田信長に奇襲をかける前に家臣に言い放った、
「敵は本能寺にあり」の一言は現代まで語り継がれています。
ところが当時の本能寺は現在とは別の場所に存在していました。
寺が建立されたのは1415年のことで、現在京都市立堀川高校が建っている場所に造られました。
それを示すものとしてここに「本能寺跡」と刻まれた石碑が建っています。
3度目の移転場所が「本能寺の変」の舞台となったところです。
京都の街は応仁の乱(1467年から1477年)を皮切りに、
その後100年にも渡って繰り返し戦いの場となり、街は荒廃しきってしまいました。
織田信長に代わって天下統一を目指した豊臣秀吉は、京の街整備を進めました。
1592年、全焼した本能寺は豊臣秀吉の命によって現在の場所に再建されることが決まりました。
その後さらに2度の火災を経て、1928年に今ある本堂が再建されることになりました。
少し余談ですが、弁慶と牛若丸が出会ったとされる五条大橋も豊臣秀吉の
「京の街改造計画」の一環として今の場所に造られました。
本能寺からは歩いて30分と少し距離がありますが、
歴史好きの方なら五条大橋まで鴨川沿いを散歩がてら行ってみてはどうでしょう。
途中通過する先斗町は幕末から明治初めにかけて勤皇派と倒幕派が切るか切られるかで
身を潜めたところです。
京都観光とは切り離すことのできない歴史の一部がそこここに垣間見られますよ。
本能寺の詳細
住所:〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
TEL:075-231-5335
FAX:075-211-2838
地下鉄東西線 「市役所前駅」すぐ
JR京都駅 地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」乗換東西線へ、市バス「市役所前駅」下車
市バス・京都バス 「河原町三条停」下車すぐ
京阪電車 「三条駅」下車 西へ徒歩5分
阪急電車 「河原町駅」下車 北へ徒歩10分
本能寺参拝時間 午前6:00〜午後5:00
宝物館開館時間 午前9:00〜午後5:00(入館は午後4:30まで)
宝物館休館日 年末年始・展示替え日
宝物館料金 一般 500円
中・高校生 300円
小学生 250円
修学旅行生・身障者 200円
※30名以上は団体割引あり
※大賓殿特別展開催期間中は料金が異なります。
まとめ
京都観光というと貴族や公家文化との繋がりが深い場所が多いような気がしますが、
日本の中心が江戸に移るまで、京都や奈良は政治や文化の中心地でした。
天皇中心の政治体制や中国文化との関わりが日本史の中に登場するのは、飛鳥時代以降です。
1000年以上もの長い時間、近畿地方に造られたいくつもの都の中でも
最大の規模(時間)を誇ったのが京都です。
そんな先人達の偉業に思いを馳せながら街を歩いてみると、
今までとは一味違った京都観光が楽しめるかもしれません。
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